人的資本経営の必要性は理解していても「具体的に何から始めればよいのか」「自社ではどのような施策が効果的なのか」と悩む経営者や人事担当者は少なくありません。
人的資本経営で大切なのは、研修や制度を増やすことではなく、経営戦略と人材戦略を結び付け、人への投資を企業価値の向上につなげることです。そのためには、先行する企業がどのような課題を設定し、どのような取り組みを進めているのかを知ることが参考になります。
本記事では、旭化成、アステラス製薬、伊藤忠商事、オムロン、花王、ソニーグループの事例をもとに、人的資本経営の具体的な施策を紹介します。
人材育成やリスキリング、従業員エンゲージメント、ダイバーシティ、KPI設定など、自社で実践する際の進め方と注意点もあわせて解説します。
人的資本経営とは
人的資本経営とは、従業員が持つ知識や経験、スキル、意欲を「資本」と捉え、人材への投資を企業価値の向上につなげる経営の考え方です。
単に研修制度や福利厚生を充実させるのではなく、経営戦略の実現に必要な人材を明確にし、採用・育成・配置・評価を一貫した方針で進めることが重要になります。
人的資本経営の基本的な考え方
従来、人件費は企業にとって削減すべきコストとして捉えられることもありました。これに対して人的資本経営では、人材を将来の成長や競争力を生み出すための投資対象と考えます。
具体的な施策としては、人材育成やリスキリング、キャリア形成支援、従業員エンゲージメントの向上、ダイバーシティの推進、柔軟な働き方の整備などが挙げられます。
ただし、施策を導入すること自体が目的ではありません。従業員の能力や意欲を高め、それを新規事業の創出、生産性の向上、離職防止といった事業成果につなげることが、人的資本経営の本質です。
従来の人材管理との違い
従来の人材管理では、採用や配置、労務管理など、日々の人事業務を安定して運用することが重視されてきました。
一方、人的資本経営では、「経営戦略を実現するために、どのような人材や組織が必要なのか」という視点から人材施策を設計します。
例えば、今後デジタル事業を強化するのであれば、必要なスキルを持つ人材の採用だけでなく、既存社員のリスキリングや配置転換、評価制度の見直しまで一体的に進める必要があります。
人材施策を人事部門だけの課題とせず、経営戦略と結び付けて考える点が、従来の人材管理との大きな違いです。
関連記事:人的資本経営とは?注目される背景・メリット・企業の取り組み事例を解説
人的資本経営が注目される背景
人的資本経営が注目される背景には、人手不足や事業環境の変化、働き方や価値観の多様化があります。
採用難が続く中、必要な人材を外部から獲得するだけでは、企業の成長を支えきれません。既存社員の能力を伸ばし、長く活躍できる環境を整えることが、これまで以上に重要になっています。
また、技術革新や市場の変化が速まる中では、過去の経験やスキルだけで事業を成長させ続けることは困難です。そのため、継続的な学び直しや、多様な人材が力を発揮できる組織づくりが求められています。
さらに、投資家や取引先からも、売上や利益だけでなく、人材育成や従業員エンゲージメント、女性管理職比率、離職率といった人的資本に関する情報が重視されるようになりました。
「人材版伊藤レポート」が示した考え方
人的資本経営を考えるうえで参考になるのが、経済産業省の「人材版伊藤レポート」です。
同レポートでは、人的資本経営を進めるためには、経営戦略と人材戦略を連動させることが重要だと示されています。
例えば、将来の事業に必要な人材像と現在の人材構成との違いを明らかにし、その差を採用や育成、配置によって埋めていく考え方です。あわせて、従業員エンゲージメントやダイバーシティ、リスキリングなどの取り組みを進めることも求められます。
また、施策を実施して終わりにするのではなく、離職率や研修受講率、エンゲージメントスコアなどのKPIを設定し、成果を継続的に確認することも重要です。
人的資本に関する情報開示は、その取り組みを社外へ伝える手段です。まずは自社の経営課題と人材課題を整理し、実態に合った施策を進めることが人的資本経営の第一歩となります。
人的資本経営の「3つの視点」と「5つの共通要素」
人的資本経営を進める際に参考になるのが、経済産業省の「人材版伊藤レポート」で示された3つの視点と5つの共通要素です。
人材育成や働き方改革などの施策を個別に進めるのではなく、経営戦略と結び付けて設計し、成果を確認しながら改善していくための考え方として整理されています。
人的資本経営に必要な3つの視点
人的資本経営では、まず次の3つの視点から人材戦略を見直します。
- 経営戦略と人材戦略を連動させる
- 現在の人材と将来必要な人材の差を把握する
- 人材戦略を企業文化として定着させる
例えば、今後デジタル事業を強化するのであれば、必要な人材を採用するだけでは十分ではありません。現在の社員が持つスキルを把握し、リスキリングや配置転換、評価制度の見直しまで一体的に進める必要があります。
また、経営陣や人事部門だけで取り組むのではなく、管理職や現場の社員にも方針を共有し、日々の業務や人材育成に反映させることが重要です。
関連記事:スキルギャップとは?AIで可視化する方法と中小企業でも実践できる解消法を解説
人材戦略に取り入れたい5つの共通要素
人材戦略を具体的な施策へ落とし込む際は、次の5つの共通要素が参考になります。
- 動的な人材ポートフォリオ:事業戦略に必要な人材の人数や能力を整理し、採用・育成・配置を見直す
- 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン:異なる経験や価値観を持つ人材が力を発揮できる環境を整える
- リスキル・学び直し:事業環境の変化に対応できるよう、社員の能力開発を支援する
- 従業員エンゲージメント:社員が仕事の意義や自身の役割を理解し、意欲的に働ける状態をつくる
- 時間や場所にとらわれない働き方:テレワークやフレックスタイムなど、能力を発揮しやすい働き方を整える
すべての施策を一度に導入する必要はありません。まずは自社の経営課題と人材課題を照らし合わせ、優先度の高いものから着手します。
大切なのは、制度を導入した数ではなく、人材への投資が経営課題の解決や事業成果につながっているかを確認することです。離職率やエンゲージメントスコア、必要人材の充足率などを継続的に確認し、施策を見直していきます。
人的資本経営の具体的な施策と進め方
人的資本経営では、研修や人事制度を増やすことよりも、自社の経営課題に合った施策を選ぶことが重要です。
まずは経営戦略から必要な人材や能力を整理し、採用、育成、配置、評価のどこに課題があるのかを確認します。そのうえで、従業員エンゲージメントの向上やリスキリング、ダイバーシティの推進など、優先度の高い施策から取り組みます。
人材戦略と経営戦略を連動させる
最初に取り組みたいのが、経営戦略と人材戦略の連動です。今後どの事業を伸ばすのか、そのためにどのような人材や能力が必要なのかを明確にします。
例えば、デジタル事業を強化する場合は、専門人材を採用するだけでなく、既存社員のリスキリングや配置転換、評価制度の見直しも必要です。現在の人材構成や保有スキルを確認し、将来必要となる人材との差を整理することで、取り組むべき施策が見えやすくなります。
人事施策を個別に考えるのではなく、経営目標から逆算して採用・育成・配置・評価を設計することが重要です。
施策を実施した後は、必要人材の充足率や配置状況、離職率などを確認し、経営戦略の実現に役立っているかを定期的に見直します。
従業員エンゲージメントを高める
従業員エンゲージメントとは、社員が会社の方針や仕事の目的を理解し、自分の役割に納得して働いている状態を指します。
エンゲージメントを高めるには、定期的な面談やフィードバックに加え、経営方針を社員へ分かりやすく伝えることが欠かせません。会社が目指す方向と、自分の仕事がどのようにつながっているのかを理解できる状態をつくります。
具体的な施策としては、1on1ミーティング、社内アンケート、経営陣との対話の場、評価制度の見直し、キャリア面談などがあります。ただし、イベントや面談の回数を増やすだけでは十分ではありません。
社員から集めた意見をもとに職場や制度を改善し、その結果を社内へ伝えるところまで取り組むことが大切です。
関連記事:エンゲージメントサーベイが意味ないと言われる理由とは?中小企業が陥る失敗と活用方法
リスキリングと学び直しを支援する
事業環境や技術の変化に対応するには、社員が新しい知識やスキルを身に付けられる環境が必要です。
リスキリングは、社員に自由に研修を受けてもらうことではありません。経営戦略の実現に必要な能力を明確にし、その習得につながる研修や実務経験を用意します。
具体的には、社内外の研修、eラーニング、資格取得支援、OJT、配置転換、社内公募制度などが挙げられます。研修で学んだ内容を実務で使えるよう、新しい業務やプロジェクトへ挑戦する機会もあわせて設けます。
研修の受講率だけでなく、習得した能力が実際の業務や事業成果に活かされているかを確認することが重要です。
多様な人材が活躍できる環境を整える
ダイバーシティの推進では、女性、外国人、シニア、障がいのある人など、多様な人材を採用することだけが目的ではありません。採用した人材が能力を発揮し、継続して働ける環境を整える必要があります。
具体的な施策としては、評価や昇進基準の明確化、柔軟な勤務制度の導入、育児や介護との両立支援、管理職候補の育成、相談窓口の整備などがあります。
また、年齢や性別、国籍などにかかわらず意見を出せる職場か、重要な業務や成長機会が一部の社員に偏っていないかも確認します。
多様な人材を集めるだけでなく、それぞれの知識や経験を意思決定や事業活動に活かせる状態をつくることが、人的資本経営におけるダイバーシティの目的です。
人的資本経営は、すべての施策を一度に始める必要はありません。自社の経営課題に対する優先順位を決め、実施後の変化を確認しながら改善を重ねていきます。
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人的資本経営の成功事例6選
人的資本経営の進め方は、企業の事業内容や経営課題によって異なります。ここでは、国内企業6社の取り組みをもとに、人材育成やキャリア支援、ダイバーシティ、情報開示などの具体的な施策を紹介します。
他社の制度をそのまま取り入れるのではなく、各社が経営戦略と人材戦略をどのように結び付けているかに注目してみましょう。
旭化成株式会社|挑戦と成長を促す人材ポートフォリオ
旭化成株式会社は、多様な事業を成長させるために、従業員一人ひとりの成長と挑戦を重視した人材戦略を進めています。
人材育成やキャリア形成支援に加え、多様な人材が活躍できる環境づくりにも取り組んでいます。事業戦略に必要な人材やスキルを明確にし、採用・育成・配置を連動させている点が特徴です。
また、人的資本に関する指標を確認しながら施策を改善することで、人材への投資を中長期的な企業価値の向上につなげようとしています。
参考にしたいポイント:経営戦略から必要な人材像を逆算し、育成や配置へ落とし込んでいる点
アステラス製薬株式会社|グローバルな人材・組織変革
アステラス製薬株式会社は、グローバル市場で新たな価値を生み出すため、人材と組織文化の変革を進めています。
専門性を高める学習機会やキャリア開発支援に加え、国や組織の枠を越えて人材が活躍できる環境の整備にも力を入れています。また、多様な経験や考え方を持つ人材を活かし、イノベーションにつなげることを重視しています。
単に研修制度を充実させるのではなく、事業戦略の実現に必要な能力を定め、その能力を伸ばすための人材施策を設計している点が参考になります。
参考にしたいポイント:事業のグローバル化と人材育成を一体で考えている点
伊藤忠商事株式会社|働き方改革を経営成果につなげる
伊藤忠商事株式会社は、従業員の健康や働き方を経営課題として捉え、生産性の向上につなげる取り組みを進めています。
働く時間を長くするのではなく、限られた時間の中で成果を上げることを重視し、勤務制度や健康支援、人材育成などを組み合わせてきました。
また、次世代経営人材の育成やキャリア形成支援にも取り組み、従業員が能力を発揮しやすい環境を整えています。人事制度を福利厚生としてではなく、事業成果を支える仕組みとして設計している点が特徴です。
参考にしたいポイント:働き方改革を従業員満足だけで終わらせず、生産性や企業価値と結び付けている点
オムロン株式会社|経営戦略と人財戦略の連動
オムロン株式会社は、長期的な企業価値の向上に向けて、経営戦略と人財戦略を連動させています。
従業員の能力や経験を活かすための配置・育成に加え、本人の意思やキャリア観を尊重したキャリア形成支援にも取り組んでいます。
さらに、人的資本に関する目標や進捗を社内外へ示し、施策の実施状況を継続的に確認しています。人材に関する取り組みを定性的な説明だけで終わらせず、指標を用いて管理しようとしている点が特徴です。
参考にしたいポイント:人的資本に関する目標を設定し、施策の進捗を可視化している点
花王株式会社|社員の挑戦を起点とした人材戦略
花王株式会社は、従業員一人ひとりの挑戦や成長を、企業の成長につなげる人材戦略を進めています。
キャリアの自律を支える仕組みや学習機会の提供、多様な働き方の整備などを通じて、社員が自分の強みを活かしやすい環境づくりに取り組んでいます。
また、従業員の意識や組織の状態を把握し、人材施策の改善に活かすことも重視しています。会社が一方的にキャリアを決めるのではなく、社員自身の意思や挑戦を尊重している点が特徴です。
参考にしたいポイント:従業員の自律的なキャリア形成と、会社の成長を結び付けている点
ソニーグループ株式会社|多様な個を活かす人材マネジメント
ソニーグループ株式会社は、多様な事業や価値観を持つ人材の個性を活かすことを、人材戦略の中心に据えています。
社員が自らキャリアを選択できる仕組みや、組織を越えて挑戦できる機会を整え、個人の主体性を引き出しています。また、デジタル分野を含む専門能力の開発や、次世代リーダーの育成にも取り組んでいます。
企業側が一律のキャリアを用意するのではなく、個人の意思と事業のニーズを結び付けながら、人材の流動性を高めている点が特徴です。
参考にしたいポイント:多様な人材の個性や専門性を、事業成長の原動力として活かしている点
成功事例に共通する3つのポイント
今回紹介した企業の取り組みには、次のような共通点があります。
- 経営戦略と人材戦略を連動させている
- 従業員の成長や自律を支える仕組みを整えている
- KPIや調査結果を活用し、施策を継続的に見直している
人的資本経営では、研修や制度の導入数を増やすことが目的ではありません。自社の経営課題を明確にしたうえで、必要な人材や能力を定め、その実現に向けて施策を設計することが重要です。
人的資本経営を導入する際の注意点
人的資本経営は、制度を導入したり、人的資本に関する数値を公表したりするだけでは成果につながりません。自社の経営課題に合った施策を選び、実施後の変化を確認しながら改善していく必要があります。
情報開示だけを目的にしない
上場企業を中心に人的資本に関する情報開示が求められていますが、数値を公表すること自体が人的資本経営の目的ではありません。
研修時間や女性管理職比率、エンゲージメントスコアなどを開示しても、それらが経営課題の解決や企業価値の向上にどうつながっているのかを説明できなければ、十分な情報とはいえません。
例えば、研修受講者数を示すだけでなく、研修によってどのような能力が身に付き、業務や事業にどのような変化があったのかまで確認します。
情報開示は取り組みの結果を社外へ伝える手段であり、開示する数値を整えることが目的にならないよう注意が必要です。
他社の施策をそのまま取り入れない
人的資本経営の事例を調べると、リスキリングや社内公募、1on1、フレックスタイムなど、さまざまな施策が見つかります。しかし、大手企業の制度をそのまま導入しても、自社で同じ成果が出るとは限りません。
必要な施策は、事業内容や従業員数、人材構成、組織の課題によって異なります。技術力を強化したいメーカーであれば、技術者の育成や技能継承が優先課題になるでしょう。一方、接客を担う企業であれば、現場教育や定着支援のほうが重要になる場合があります。
まずは自社が今後伸ばしたい事業と、その実現を妨げている人材面の課題を整理します。そのうえで、採用、育成、配置、評価、働き方のうち、どこから見直すべきかを判断します。
話題の制度を取り入れるのではなく、自社の経営課題から必要な施策を選ぶことが大切です。
KPIを増やしすぎない
人的資本経営の成果を確認するには、KPIの設定が必要です。ただし、測定できる数値をすべて管理しようとすると、集計や報告に時間がかかり、本来の改善活動が後回しになってしまいます。
KPIは、解決したい課題に合わせて絞り込みます。例えば、若手社員の定着が課題であれば、若手社員の離職率や配属後の面談実施率、エンゲージメントスコアなどを確認します。次世代管理職の育成が目的であれば、候補者数や育成プログラムの修了率、登用率などが考えられます。
また、研修受講率や面談実施率などの「実施状況」だけでなく、離職率や生産性、必要人材の充足率といった「結果」もあわせて確認することが重要です。
KPIは数を増やすほどよいわけではありません。経営課題とのつながりを説明でき、継続して確認できる指標に絞りましょう。
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短期間で成果を求めすぎない
人材育成や組織文化の改善は、施策を始めてすぐに結果が出るものではありません。研修を実施した翌月に生産性が大きく上がるとは限らず、配置や評価制度を見直した効果が表れるまでに時間がかかることもあります。
短期的な数値だけで施策の成否を判断すると、必要な取り組みまで途中で打ち切ってしまうおそれがあります。面談実施率や研修修了率などの途中経過と、離職率や事業成果などの中長期的な変化を分けて確認することが大切です。
短期・中期・長期の目標を分けて設定し、一定期間ごとに施策の進捗と成果を見直しましょう。
人的資本経営の進め方や人事施策の優先順位にお悩みの企業様は、お気軽にご相談ください。
まとめ
人的資本経営は、人材育成や働き方改革といった個別施策を実施するだけでは成果につながりません。自社の経営戦略を実現するために、どのような人材が必要なのかを明確にし、採用・育成・配置・評価を一貫した方針で進めることが重要です。
今回紹介した企業では、リスキリングやキャリア形成支援、従業員エンゲージメントの向上、ダイバーシティ推進など、さまざまな施策が行われています。ただし、他社の取り組みをそのまま取り入れても、自社に合うとは限りません。
まずは自社の経営課題と人材課題を整理し、優先順位の高い施策から始めることが大切です。そのうえで、離職率やエンゲージメントスコア、研修受講率などのKPIを設定し、効果を確認しながら改善を続けていきましょう。
株式会社Tsumuguでは、企業ごとの課題に合わせた人材戦略や組織づくりを支援しています。人的資本経営をどのように進めるべきかお悩みの企業様は、お気軽にご相談ください。





















