社員研修やリスキリング、働きやすい環境づくりに力を入れていても「その投資が会社の成長にどれだけ効いているのか」と聞かれると、答えに詰まる企業は少なくありません。
人的資本経営では、人材を単なるコストではなく、将来の利益を生み出す資本として捉えます。ただし、研修回数や受講人数を増やすだけでは、人材への投資が企業価値につながっているとは言い切れません。生産性や離職率、エンゲージメント、事業収益にどのような変化が出たのかまで見ていく必要があります。
そこで押さえておきたいのが、ROICやWACC、ROIといった財務の視点です。人的資本に関する指標と財務指標をつなげることで、どの施策に投資を続けるべきか、どこを見直すべきかを判断しやすくなります。
この記事では、人的資本経営と資本コストの関係を整理しながら、人的資本投資の効果を測るKPIや情報開示の考え方、実際の企業事例を紹介します。
人的資本投資の重要性と資本コストとの関係
人的資本投資とは、社員の教育やリスキリング、働く環境の整備などを通じて、人材の能力や組織の力を高めるための投資です。
研修費や人材育成費は短期的にはコストとして表れますが、人材の成長によって生産性や付加価値が高まり、離職の抑制や事業成長につながれば、中長期的には企業価値を高める投資になります。
人的資本経営で重要なのは「人にいくら使ったか」ではなく、その投資が事業や企業価値にどのような変化をもたらしたのかを見ることです。
そのため、人的資本投資を考える際には、人事部門だけで完結させず、ROICや資本コストといった財務の視点とあわせて考える必要があります。
人的資本とは?企業価値を生み出す人材の力
人的資本とは、社員が持つ知識やスキル、経験、能力など、企業の価値創造につながる人材の力を資本として捉える考え方です。
設備やシステムと違って、人材は採用しただけで同じ価値を生み続けるわけではありません。教育や経験によって成長する一方、働く環境やマネジメントによっては能力を十分に発揮できなかったり、離職によって社外へ流出したりすることもあります。
だからこそ、採用だけでなく、教育・研修、リスキリング、配置、評価、マネジメント、エンゲージメント向上などを通じて、人材が力を発揮できる状態をつくることが重要です。
人的資本経営は、人件費を単なるコストとして管理するのではなく、人材への投資によって将来の企業価値を高めていく考え方です。
人的資本情報を開示する意味
人的資本経営では、施策を実施するだけでなく、その状況や成果を把握することも重要です。
たとえば、研修時間、従業員エンゲージメント、離職率、女性管理職比率などの指標を継続的に確認することで、人材への投資が組織にどのような変化をもたらしているのかを把握しやすくなります。
こうした人的資本に関する情報は、投資家や求職者などのステークホルダーが企業を判断する材料にもなります。
ISO30414とは
ISO30414は、人的資本に関する情報を整理・報告するための国際的なガイドラインです。
人材の多様性、組織文化、採用、離職、生産性、スキル開発など、人材に関する幅広い領域を対象としています。
重要なのは、ISO30414に沿って数字を開示すること自体を目的にしないことです。自社にとって重要な人材指標を定め、その変化を経営判断や人事施策の改善につなげることに意味があります。
関連記事:人的資本経営とは?注目される背景・メリット・企業の取り組み事例を解説
資本コストとは?WACCとROICの関係
人的資本投資と企業価値の関係を考えるうえで、押さえておきたいのが「資本コスト」と「ROIC」です。
企業は、株主や金融機関などから調達した資金を使って事業を行います。当然ながら、調達した資金には一定のコストがあります。
一方、その資本を事業に投入して、どれだけ効率よく利益を生み出したかを見る代表的な指標がROICです。
簡単にいえば「資金を調達するために必要なコスト」よりも「その資金を使って生み出す収益性」が高ければ、企業価値を生み出していると考えられます。
ROIC(投入資本利益率)とは
ROIC(Return on Invested Capital:投入資本利益率)は、企業が事業に投入した資本を使って、どれだけ効率よく利益を生み出しているかを見る指標です。
一般的には、次の考え方で算出します。
ROIC = 税引後営業利益(NOPAT)÷ 投下資本
ROICが高ければ、限られた資本からより多くの利益を生み出していることになります。
人的資本投資もROICと無関係ではありません。たとえば、社員のスキル向上によって一人あたりの生産性が上がったり、適切な配置によって事業の収益性が改善したりすれば、結果としてROICの向上につながる可能性があります。
ただし、研修を増やせばROICが上がるという単純な関係ではありません。人的資本への投資を、売上、生産性、利益率、離職率などの変化とあわせて確認することが重要です。
WACC(加重平均資本コスト)とは
WACC(Weighted Average Cost of Capital:加重平均資本コスト)は、企業が株主や債権者から資金を調達するために必要となるコストを、資本構成に応じて加重平均したものです。
企業側から見れば、事業や投資によって最低限超えるべき収益率の目安の一つになります。
たとえば、WACCが5%なのに、投資した事業から3%程度の収益しか生み出せなければ、資本コストに見合ったリターンを得られていないことになります。
反対に、ROICがWACCを継続的に上回れば、投入した資本から資本コストを超える収益を生み出していると考えることができます。
ROIC>WACCが企業価値向上につながる理由
ROICとWACCの関係は、企業が資本を使って価値を生み出せているかを考えるうえで重要です。
ROICがWACCを上回る状態を継続できれば、企業は資本コストを上回るリターンを生み出し、企業価値の向上につなげやすくなります。
ここで人的資本投資が関係してきます。
たとえば、社員教育によって生産性を高める、適切な人材配置によって利益率を改善する、エンゲージメント向上によって離職や採用のコストを抑えるといった取り組みは、事業の収益性や資本効率に影響します。
つまり、人的資本投資は「研修費をいくら使ったか」だけで評価するものではありません。
人材への投資が、生産性や利益率、離職率などをどう変化させ、最終的に企業価値へどうつながったのかまで考えることが重要です。
関連記事:人的資本経営の成功事例6選|企業の取り組みから学ぶ具体的な施策と進め方
人的資本投資の費用対効果:ROIという視点から見る
社員研修やリスキリング、採用、職場環境の改善などには当然コストがかかります。人的資本経営を進めるうえでは、「いくら投資したか」だけでなく、その投資によって何が変わったのかを確認することが重要です。
そこで一つの考え方になるのが、ROI(投資対効果)です。投じた費用に対して、生産性や売上、利益、離職率などがどのように変化したのかを見ることで、人的資本投資の成果を検証しやすくなります。
ただし、人的資本投資は短期間で成果が表れるとは限りません。単純な費用対効果だけで判断せず、中長期的な変化も含めて見ることが大切です。
人的資本投資はどのような成果につながるのか
人的資本投資の効果は、研修を受けた人数や資格取得者数だけでは判断できません。その結果として、社員や組織がどう変わったのかを見る必要があります。
たとえば、業務に必要なスキルを身につけることで一人あたりの生産性が上がったり、新しい業務を任せられる人材が増えたりすれば、事業の成長につながります。
また、マネジメントの改善や働きやすい環境づくりによってエンゲージメントが高まり、離職率が下がれば、採用や教育を繰り返すコストの削減も期待できます。
人的資本投資のリターンは「人材が成長したか」だけでなく「その成長が事業にどのような成果をもたらしたか」まで見ることが重要です。
KPIを設定して人的資本投資の効果を測る
人的資本投資の成果を確認するには、施策に合わせてKPIを設定します。
たとえば、社員研修であれば受講率や研修時間だけでなく、研修後のスキル習得率や業務成果の変化まで確認します。エンゲージメント向上を目的とした施策であれば、エンゲージメントスコアに加えて、離職率や欠勤率なども確認すると効果を捉えやすくなります。
採用であれば、採用人数だけではなく、採用単価や入社後の定着率、活躍状況などを見ることも必要です。
「施策を実施したか」を測るKPIと「実施した結果どう変わったか」を測るKPIを分けて考えることがポイントです。
こうした指標を継続的に確認すれば、効果の高い施策には投資を増やし、成果につながっていない施策は見直すといった判断もしやすくなります。
人的資本のKPIと財務指標をつなげて考える
人的資本に関するKPIは、それだけを追い続けても経営への影響が見えにくい場合があります。
たとえば、研修によって社員のスキルが向上したのであれば、その後に一人あたりの売上や生産性、利益率がどう変化したのかまで確認します。離職率が改善したのであれば、採用費や教育費の削減にどの程度つながったのかを見ることもできます。
さらに、こうした変化が事業の収益性を高めれば、前述したROICなどの財務指標にも影響してきます。
人的資本のKPIと売上・利益・生産性などの財務指標をつなげることで「人への投資」が経営にどう貢献しているのかを説明しやすくなります。
ただし、人的資本投資と財務成果の間には、事業環境や市場動向などさまざまな要因が関係します。「研修を実施したから利益が増えた」と単純に結論づけるのではなく、複数の指標を継続的に確認しながら投資効果を判断することが大切です。
関連記事:採用KPIとは?中小企業が見るべき4つの指標と兼任でも続く運用方法
実在企業の事例から学ぶ人的資本経営
人的資本経営といっても、社員研修を増やしたり、福利厚生を充実させたりするだけではありません。
重要なのは、自社の経営戦略に必要な人材やスキルを明確にし、採用・育成・配置などの施策につなげ、その成果を継続的に確認することです。
実際に人的資本経営に力を入れている企業を見ると「人材への投資」と「経営戦略」を切り離さずに考えていることがわかります。
ここでは、国内企業の取り組みから参考になるポイントを紹介します。
オムロン株式会社|経営戦略と人材戦略を連動
オムロン株式会社は、長期ビジョンや事業戦略と人材戦略を連動させながら、人的資本経営を進めています。
特徴の一つが、社員一人ひとりの能力や経験を生かすための人材育成や配置です。単に研修の機会を増やすのではなく、事業の成長に必要な人材を考え、その実現に向けて人材への投資を行っています。
また、人的資本に関する取り組みや指標を開示し、社内だけでなく投資家などのステークホルダーにも人材戦略を伝えています。
人的資本への投資を人事部門だけの施策にせず、経営戦略の実現に必要な取り組みとして位置づけている点が参考になります。
旭化成株式会社|人材ポートフォリオとスキルの見える化
旭化成株式会社では、事業戦略の実現に必要な人材を把握するため、人材ポートフォリオの考え方を取り入れています。
特に力を入れているのが、社員が持つスキルや経験の把握です。現在どのような人材がいるのか、今後どのような人材が必要になるのかを整理することで、採用や育成、配置などの人事施策につなげています。
また、DXを進めるうえで必要となるデジタル人材の育成にも取り組んでいます。
「とりあえず人材を育成する」のではなく、事業に必要な人材と現在の人材とのギャップを把握したうえで投資先を決めることがポイントです。
花王株式会社|社員の挑戦と成長を後押しする仕組み
花王株式会社では、社員一人ひとりの挑戦や成長を促すため、人事制度や組織の仕組みを見直しています。
その一つがOKR(Objectives and Key Results)の活用です。会社や組織の方向性と個人の目標をつなげながら、社員が自ら考えて挑戦できる環境づくりを進めています。
また、人材の配置や育成について経営レベルで議論する仕組みを設けるなど、人材戦略を経営課題として扱っている点も特徴です。
研修だけに頼るのではなく、目標設定や配置、マネジメントなど、社員が成長しやすい仕組みそのものを整えている点が参考になります。
伊藤忠商事株式会社|働き方改革を生産性向上につなげる
伊藤忠商事株式会社は、働き方改革と生産性向上を組み合わせた取り組みで知られています。
代表的なのが朝型勤務制度です。長時間労働を前提とした働き方を見直し、限られた時間の中で成果を上げる働き方への転換を進めてきました。
人的資本経営では、社員に研修を提供することだけが「投資」ではありません。社員が能力を発揮しやすい働き方や職場環境を整えることも重要な人的資本投資です。
人材への投資を生産性などの経営指標と結びつけて考えることで、人的資本施策を経営課題として捉えやすくなります。
丸井グループ|社員の自発性を生かす組織づくり
丸井グループでは、社員が自ら手を挙げて参加する「手挙げ」の仕組みをさまざまな場面で取り入れています。
会社から一方的にキャリアや仕事を与えるのではなく、社員自身が意思を持って挑戦する機会を増やすことで、自律的なキャリア形成や組織への参加を促しています。
人的資本への投資というと、研修費や採用費など金額で表しやすいものに目が向きがちです。しかし、社員が挑戦できる制度や組織風土をつくることも、人材の価値を高める取り組みの一つです。
人的資本経営では「いくら投資するか」だけでなく「社員が持っている力を発揮できる組織になっているか」という視点も欠かせません。
成功事例をそのまま真似する必要はない
ここまで紹介した企業は、それぞれ異なる方法で人的資本経営に取り組んでいます。
人材ポートフォリオを整備する企業もあれば、働き方を変える企業、社員の自律性を高める企業もあります。重要なのは、有名企業の制度をそのまま導入することではありません。
自社の経営課題を整理し「どのような人材が必要なのか」「人や組織の何を変える必要があるのか」を決めたうえで、必要な人的資本投資を選ぶことが重要です。
そのうえで、前述したKPIや財務指標を使って変化を確認し、成果が出ていない施策は見直していくことが、人的資本経営を継続するポイントです。
人的資本経営を資本コスト管理に結びつける方法
人的資本経営を進めるうえで大切なのは、人事施策と財務を別々に考えないことです。
たとえば、「研修を年間何回実施したか」「一人あたりの研修費をいくら増やしたか」だけでは、その投資が経営に役立ったのかまではわかりません。
研修やリスキリング、採用、配置、職場環境の改善などによって、生産性や離職率、売上、利益率がどう変化したのか。その結果を見ながら、次にどこへ人と資金を配分するのかを判断する必要があります。
人的資本経営を経営戦略として機能させるには「人に投資する」だけで終わらせず、その成果を経営指標とつなげて検証することが重要です。
経営戦略から必要な人材と投資を考える
人的資本投資は、研修や福利厚生などの施策から考え始めるのではなく、まず自社の経営戦略から逆算します。
新規事業を伸ばしたいのであれば、必要な知識やスキルを持つ人材が社内にどれだけいるのかを確認します。DXを進めたいのであれば、デジタル人材の採用や育成、既存社員のリスキリングが必要になるかもしれません。
一方で、離職率の高さが事業成長を妨げているのであれば、新たな採用を増やすより、評価制度やマネジメント、職場環境を見直したほうが効果的な場合もあります。
「何に投資するか」ではなく「経営課題を解決するために、どのような人材や組織が必要なのか」から考えることがポイントです。
そのうえで、限られた経営資源を採用・育成・配置・組織開発などのどこへ振り分けるのかを決めていきます。
人的資本のKPIと財務指標を一緒に見る
人的資本への投資効果を確認する際は、人事に関する数字だけを見るのではなく、財務や事業の数字とあわせて確認します。
たとえば、リスキリングを実施したのであれば、受講率や研修時間だけでなく、その後の生産性や売上、利益率などの変化まで追います。
離職防止に取り組んだのであれば、離職率やエンゲージメントだけでなく、採用費や教育費、一人あたりの売上なども確認すると、経営への影響が見えやすくなります。
人的資本のKPIと事業・財務の数字を並べて見ることで「人への投資が経営にどう影響したのか」を検証しやすくなります。
こうした検証を積み重ねることで、成果の出ている施策には投資を増やし、効果の見えにくい施策は見直すといった判断ができるようになります。
データを活用して人材への投資判断を改善する
社員数や扱うデータが増えてくると、人事データと事業データをまとめて確認できる環境も必要になります。
人事システムやBIツールなどを活用すれば、採用、配置、研修、評価、エンゲージメント、離職といった情報を整理し、売上や利益などの事業データと比較しやすくなります。
生成AIやAIをデータの整理や分析の補助に活用する方法もあります。ただし、AIが出した結果だけで人材配置や評価を決めるのではなく、あくまで経営判断を支える材料の一つとして扱うことが大切です。
重要なのは高度なツールを導入することではなく、経営判断に必要なデータを継続して集め、施策の改善に使える状態をつくることです。
人的資本への投資と資本コストは分けずに考える
人的資本への投資が、直接WACCを下げるわけではありません。しかし、人材への適切な投資によって事業の生産性や収益性が高まり、将来の成長性や経営の安定性につながれば、企業価値を考えるうえで重要な材料になります。
また、人的資本に関する方針やKPIを開示することで、投資家が「どのような人材戦略で事業を成長させようとしているのか」を判断しやすくなります。
だからこそ、人的資本経営では、人事部門だけで目標を設定するのではなく、経営戦略や財務戦略とあわせて考える必要があります。
人的資本への投資、事業の成長、財務成果を一つの流れとして捉え、継続的に検証することが、企業価値の向上につながります。
まとめ
人的資本経営という言葉が広がる一方で、研修制度を増やしたり、エンゲージメント調査を実施したりすること自体が目的になっている企業も見受けられます。しかし、本来確認すべきなのは、その取り組みによって人や組織がどう変わり、事業にどのような成果が出たのかです。
人的資本への投資は、すぐに売上へ表れるものばかりではありません。社員が新しいスキルを身につけるまでには時間がかかりますし、組織風土や定着率の変化も短期間では判断できません。だからこそ、研修の受講率だけを見るのではなく、生産性や離職率、社内異動、エンゲージメント、利益率などを継続して追う必要があります。
ROICやWACCは、人事担当者には少し遠い指標に見えるかもしれません。それでも、「人材への投資が、どのように収益性や企業価値につながるのか」を経営と人事が一緒に考えるための共通言語になります。
まずは、自社が人材に何を期待して投資しているのかを整理してみてください。必要なスキルを増やしたいのか、離職を減らしたいのか、新しい事業を担う人材を育てたいのか。目的が決まれば、追うべきKPIも見えやすくなります。
人的資本経営で大切なのは、開示する数字を増やすことではありません。人材への投資と事業の成果を結びつけ、次の経営判断に使える状態をつくることです。自社の課題に合った指標から始め、施策と成果の関係を少しずつ確かめていきましょう。
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